巻頭言 Vol.57 No.1 2021
巻 頭 言
カブトムシとコガネムシ
安房医師会 会長 原 徹
「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」 これを私の令和3年初めの提言とさせてください。 世界一貧しい大統領と呼ばれた 第40代ウルグアイ大統領 ホセ・アルベルト・ムヒカ・コルダノの言葉です。 彼は大統領公邸には住まず、首都モンテビデオ郊外の古びた平屋に妻のルシア・トポランスキ上院議員と2人暮らし。1987年製のフォルクスワーゲンをみずから運転し、公用車に乗る時も、決して運転手にドアの開け閉めをさせない。給与のほとんどを寄付し、月1,000ドルで生活していた大統領です。個人資産はくだんのワーゲンと自宅と農地とトラクター。その暮らしぶりから「世界で一番貧しい大統領」と呼ばれていました。
1935年5月20日、スペイン系の父とイタリア系の母の間に、ウルグアイの首都モンテビデオで生まれた。7歳の時に父親が亡くなり、家畜の世話や花売りなどで家計を助けながら、社会運動に目覚め、一時期は極左武装組織(ツパマロス)に参加。軍事独裁政権下でのゲリラ活動にも従事、活動中には6発の銃弾を受け、4度の逮捕を経験。最後の逮捕では、1972年から軍事政権が終わり85年に釈放されるまでの約13年間の過酷な獄中生活を送りました。「人類に必要なのは命を愛するための投資だ。全人類のためになる活動は山ほどある。世界一乾いた砂漠の気候を変える。それは人間にもできる。年寄りが金を貯め込んだり、高価な車を生産する代わりにできる」「人生は短く、あっという間です。命より大事なものはありません。しかし必要以上にものを手に入れようと、働きづめに働いたために、早々に命が尽きてしまったら?…」「あくことなく、ものを手に入れ、ものを作り続けることが今の社会を動かしています」「私たちは“発展”するためにこの世に生まれてきたのではありません。この惑星に“幸せ”になろうと思って生まれてきたのです」「今の時代、“自由”とは“欲望”を追求することになってしまった。変わらなければならない、新しい世代にその機会をゆだねたい…」何だか心に沁みる、しかし耳が痛くなる言葉でもあります。
災害に加えて新型コロナの不安が重なり、何かと暗い毎日を送っている現在の状態で、何が生きる目標であるのか考えさせられる毎日です。彼はフォルクスワーゲン=カブトムシを愛していましたが我が国にもコガネムシの歌があります。大正11年に野口雨情の作詞、中山晋平の作曲で書かれた哀愁を帯びた歌です。『黄金虫は金持ちだ 金蔵建てた蔵建てた 飴屋で水飴買つて来た黄金虫は金持ちだ金蔵建てた蔵建てた 子供に水飴なめさせた』この童謡で歌われている「コガネムシ」。
ここでいうコガネムシは「ゴキブリ」を指すとされる説があります。ゴキブリの名前は、『「御器(ごき)」を「かぶる」』というのに由来しているそうです。要は、「食卓に集まってきてしまう虫」ということです。大正の昔には、食べ物が豊富で暖かい部屋のあるお金持ちの家にはゴキブリがいたもの。つまり、「金持ちの象徴」とされました。今のように、豊かな暮らしではない時代に作られた歌です。お金持ちの家には、さまざまな美味しい食材が集まっていたのでゴキブリは、そうしたエサを求めて、やってきたことから、このように歌われたと考えられています。それにしても何だか悲しくなる歌だと思いませんか?我々は一体何を求めて生きてゆくのか? この歌と同様、謎に満ちた命題です。
令和3年が少しでも希望に満ちた明るい年になるには『自分自身の考えを変えなければならない』と考えています。それにしても物欲は際限のないものですが・・・。
巻頭言 Vol.56 No.6 2020
-少子高齢化に備えて-
安房医師会 副会長 竹内信一
新型コロナウィルス感染症でお取込み中のご時世ではありますが、今後の少子高齢化について再考してみることにしました。今の少子化のペースでいくと2050年の日本の人口は8,000万人近くとなり、高齢化率40%で働き手どころか日本人自体の消滅が見えてくる気がします。具体的には少子高齢化が進んだ時には3つの問題点が指摘されています。1)労働力不足-経済への影響、2)若年層への負担増-親の介護、医療費の増大、3)年金制度の崩壊、です。そして、高齢化すなわち高齢者が増加するため引き際や定年制と言った問題で片付けられている気がしてなりません。確かに高齢者には少子化問題の解決に直接寄与することは困難ではありますが。そこで、高齢者が生かされている歴史的、生物学的意味について文献を紐解きながら考えてみました。ホモ・サピエンスの歴史の中で、高齢者はその知識や経験が群れ全体の生存に役立つだけではなく、例えばみんなが食べ物の狩りや採集に行っている間に赤ちゃんの面倒を見るとか、留守番をするなどして、次世代の育成に役立ってきた-すなわち、高齢者がなぜ生きているかといえば、次の世代のためなのです。また、「ゾウの時間ネズミの時間」で著名な生物学者である本川達雄氏も生物学的な観点から次のように提言しています。
老後においても、私は生殖活動に意味を見つけようと思います。とはいえ、生々しい生殖活動ができなくなるのが老いというものです。そこで、直接的な生殖活動ができなくても次世代のために働くこと-これを広い意味での生殖活動と考え、これに老後の意味を見つけたいのです。具体的に言いましょう。われわれ老人は子育てを支援し、若者が子供を作りたくなる環境を整備する。身体も脳も日々よく使い、自立した生活をして老化を遅らせ、必要になったら互いに介護に努め、医療費・介護費を少なくし、そうすることにより、できるだけ次世代の足を引っ張らないようにする、ことです。
これから人生100年時代を迎える現代、高齢者も引き際や定年といった後ろ向きな考えではなく、健康なうちは「オール・サポーティング・オール」の精神で、年齢に関係なく生きていけば前述した1)-3)も少なからず解決するかもしれません。最後に、しつこいようではありますが、「高齢者は若い世代のために生きている」ということを再認識しようではありませんか。
巻頭言 Vol.56 No.5 2020
大きな試練に備えて
安房医師会 会長 原 徹
この原稿は令和2年8月1日に書いています。関東地方は梅雨明けがようやく宣言されましたが、コロナの新規感染者数は増加が続き、東京都では472人と3日連続で過去最多人数を更新しています。大阪府、愛知県、福岡県、また神奈川県・埼玉県・千葉県など首都圏でも増加傾向がみられ、7月31日に確認された新たな感染者数は、全国で1580名を数えました。それでも重症者は比較的少なく、幸いなことに死亡者も諸外国に比較し少数に逗まっています。
安房医療圏では4月に南房総市で初めて発生、その後3ヶ月間は0でした。2例目は7/11に館山市で感染者が報告、幸い海外からの帰国者で無症状病原体保有者であり、感染拡大には至りませんでした。そして7/20には鴨川市で医療関係者の感染が判明、61人の濃厚接触者を評価した結果、全員がPCR検査陰性の結果となりました。しかし終息の予測は依然として立たず、地域経済の冷え込みは感染の実情に比較し極めて甚大な状況に陥っています。これまでにも様々な経済支援策が出されましたが、地球規模に及んだ災厄を簡単に回復することは困難であり、今後経済の悪化が原因で、様々な諍いが生じる事が予測されています。
そんな訳でstay homeで生まれた時間を活用し、改めて昭和の歴史を振り返る作業を行いました。『人間は何故争い、戦うのか?』を学ぶ事を目的としました。自分自身や家族など親しい人々の生活や安全を確保できない状況下に陥った際、人間はどの様に行動すべきなのか? 僅か75年前、1945(昭和20)年当時には現在とは較べる事もかなわない過酷な状況下で、国や家族の為に人々が自己の生命を捧げて戦っていた時代が、我が国にはありました。その過程で資金や資源も無かった我が国が、欧米に搾取されていた亜細亜を植民地支配から解放することを掲げ、世界に大きな変革を齎した事は日本人として誇るべき事であると思います。そしてその実現にむけた方策として大東亜共栄圏が提唱されました。昭和18年11月に開催された大東亜会議には東南アジア独立の英雄達が集まり、その共同宣言では大目標として『大東亜を米英の桎梏から開放する』ことが掲げられました。そしてその上で ①同義に基づく共存共栄 ②自主独立の尊重 ③各自の伝統を尊重し各民族の創造性を伸暢する ④互恵的経済発展 ⑤人種差別の撤廃 以上の五項目が盛り込まれました。大戦後の世界史を振り返っても、国の在り方を示す素晴らしい指針であったと考えます。現在我が国だけでなく、世界の多くの国々が経済的危機に直面しています。これを武力や暴力を回避し、乗り越えて進むには人類全体の連携、相互理解が必須であると考えます。その基盤となる理念として前記の五項目が極めて重要であること。逆にこの相互理解がなければ必ず『諍い・戦い』が生まれることは必然です。
この宣言は理想的に過ぎる内容であるかも知れません。しかしこれから少なくとも数年間は人類にとって極めて大きな試練に立ち向かわなければならない時代になると覚悟しています。コロナ禍も、これまでの度重なる災害もこれから直面するであろう『大きな試練への序章』であると受け取り、『公益法人として地域住民の健康を支える組織』であるとともに『社会に貢献できる組織として利他の精神を保ち』安房医師会活動を進めて行く覚悟です。
巻頭言 Vol.56 No.4 2020
巻 頭 言
安房医師会 理事 岡田唯男
なぜか前回の巻頭言も理事改選直後であった。前回の巻頭言では「よそ者、若者、馬鹿者(世の中や組織を変えるのはこの三者と言われています)」の立場を活かして頑張りたい、といったことを書いたが、房州での暮らしも20年目が射程距離にはいってきた。「京都十代、東京三代、大阪一代」(その土地の人間となるのに、京都は十代かかるが、東京は三代、大阪は一代でよい、十代住み続けて、はじめて京都人として認められる)」という言葉があるそうだが、房州はどれだけ住めばその土地の人間と名乗ることが許されるのだろうか?私が時々引用する詩に玉井袈裟男氏(信州大学名誉教授、農学者、社会教育指導者1925~2009)のものがある。そのまま下記に引用する。
風土という言葉があります
動くものと動かないもの
風と土
人にも風の性と土の性がある
風は遠くから理想を含んでやってくるもの
土はそこにあって生命を生み出し育むもの
君、風性の人ならば、土を求めて吹く風になれ
君、土性の人ならば風を呼びこむ土になれ
土は風の軽さを嗤い、風は土の重さを蔑む
愚かなことだ
愛し合う男と女のように、風は軽く涼やかに
土は重く暖かく
和して文化を生むものを
魂を耕せばカルチャー、土を耕せばアグリカルチャー
理想を求める風性の人、現実に根をはる土性の人、
集まって文化を生もうとする
ずっとそこに住む者にも、流れてきては去る者にもそれぞれの強みと弱みがある。日本中の、特に地方において人口減少が始まっている時代、関係人口(時々繰り返しやってくる人)の力も借りなければならない、日本自体がインバウンド(海外からやってくる人)の力も借りなければならない時代に、その人がずっと住み続けてくれる人なのか? その人は仲間なのか?余所者なのか?という問いを立ててその結果によって不利益が生じるような対応の仕方が生じることほど「もったいない」ことはないのではないだろうか? 日本は、特に地域はそういう余裕すらない状況だと先に気づいて、猫の手も借りる、役に立つものはなんでも使う、とやり方を変えた地域、集団だけが今後生き残れる時代のように思う。
巻頭言 Vol.56 No.3 2020
2020に思う・・・
安房医師会 理事 石井義縁
新型コロナウイルスは、WHOがCOVID-19と命名した。そのWHOの感染症危機管理に大学の同級生であるS氏がいる。2月9日に、某局の衛星中継で新型コロナウイルス感染症のインタビューに答えていたのを、偶然にも観た。S氏は、「中国が早めに武漢を囲い込んだおかげで、一時的に海外への流出が抑えられたが、おそらく2月下旬まで持ちこたえるのが精いっぱいであろう」と語っていた。2月12日時点で、日本では検疫官や武漢からチャーター機で帰国した自宅待機の人が感染していることが判明。翌13日には、国内初の死者が報告され、同日、感染経路もわからない和歌山の医師の感染も確認された。S氏は、2月14日の日本環境感染症学会の緊急セミナーで講演をし、「新型インフルエンザ対策では、2009年のパンデミックの際に、日本は最も人が死亡しなかった先進国であり、今踏ん張って頂きたい」と締めくくっている。その後も新型コロナに関わった検疫官や医療従事者らの感染が相次いだ。これは、普段から清潔領域を守りながらの脱着の仕方に慣れない人がマスクやグローブをしても、感染防止対策は完全ではないということである。S氏は、前述の講演で、WHOではマスクは症状がある人、あるいはその患者の診療にあたる人以外は勧めていないと語っている。WHOは2月28日に、危険度を、「非常に高い」に引き上げ、3月4日には、日本国内の感染者数が1000人を超えた。3月12日に、WHOは、とうとうパンデミック宣言をした。4月に入りWHOは、手洗いや対人距離の確保といった対策が難しい場合には、マスクの着用は正当化されると見解を変えた。英国では、新型コロナ感染症に罹っていたジョンソン首相が4月5日にロンドンのSt Thomas’病院に入院し、翌日ICUに移った(ここは約20年前の小生の留学先である)。4月7日に、日本では千葉を含む7都府県に緊急事態宣言が発令された。いきつくところ、しっかりと睡眠と栄養をとって、感染してもそれに打ち勝つ抵抗力を維持することが、何よりも大事なように思う。
今年は、一応オリンピックイヤーである。大学までかれこれ12年間陸上部一筋で過ごした小生にとって国立競技場は夢の舞台である。幸いにもそのチケットが当たった。WHOがパンデミック宣言をした日、ギリシャのオリンピアで聖火が灯され、3月20日に日本に到着した。しかし、予想どおり新型コロナ感染症の世界的拡大の影響で、2021年夏に延期された。とにかく今を踏ん張り、来年夏のオリンピックを、夢の舞台で観戦したいものである。
余談だが、国立競技場の真ん前に、24時間営業の「ホープ軒」というラーメン屋さんがある。ナショナルスタジアムを訪れる際には、是非ここに立ち寄ることをお勧めする。
巻頭言 Vol.56 No.2 2020
自然災害に思う
安房医師会 理事 田中かつら
年も改まり、すでに立春を迎え、時は年度末へ。しかし、まだ房総のあちこちにブルーシートが張られた屋根を見かける。通院される患者さんからも、続く雨漏りやカビの影響、風が吹くと眠れないなどの訴えを聞く。昨年の台風被害は過去ではなく、まだまだあの痛手から抜け出せていない。報道される新型肺炎もある意味自然災害の一つ。自分たちではどうしようもない脅威から、それでも身を守らねばならないことには変わりはない。正しい情報を得ることの大切さと、その情報を正しく伝えることの難しさを改めて感じている。
前回の台風災害は様々な貴重な体験を与えてくれた。特に通信障害は、この何年も当たり前だった常識が崩れた。私が研修医時代(1985年頃)ポケットベルが主流。アナログの携帯電話が出始めた頃でもある。携帯の通信状況は悪く、着信音が鳴っても繋がりが悪いため、近くの公衆電話で掛け直した記憶が蘇る。今回の15号台風被害で固定電話、携帯電話、公衆電話の全ての通信手段が途絶えた。微かな電波を求め、診療の合間に市内を移動。やっと繋がった電波は途切れ途切れ。地区の被害状況や、地元以外の情報は皆無であった。今日明日の医師会理事会開催や行政の会議がどうなったか?いろいろな手立てで情報を得ようとした。そして、どうやって知り得たか?それは、最も原始的な方法「人伝て」であった。孤立した医療機関どうしをつなげてくれたのは、顔見知りの行政の方々や、いつも訪れてくれる卸業者、災害時のノウハウを持っている製薬会社、そして介護・福祉関係の仲間達であった。もともと35年前はこうだったんだと、再度確認した次第である。便利な手法に慣れ、忘れてしまった「大切な人たち」を気づかせてくれた。そして、自分が支援されて初めて「支援」とは何かを知る。
今では停電の大変さについて、多少は笑って人に話すことができる。しかし、同じことがまた起きた時にもっとうまく凌ぐことができるだろうか?何も問題がなく普通に生活できている今、自分に問われていると思う。
当時を振り返ると、やはり自分のことで精一杯であった。しばらくして開催できた安房医師会理事会では、被害状況の確認が精一杯。更なる支援行動についてあまり心が及ばなかった。それは、きっと私だけではないだろう。被害が大きければ大きいほど、客観的に俯瞰した状況になれないからだ。次の災害時にはもっとうまくできるであろうか?甚だ不安ではある。今回の検証がまだ十分にできていない。十分な電波や電気がある中で、忘れてはいけない体験を思い出す機会は続けなくてはいけない。非日常から日常を考えることが、さらにより良い日常を得ることができると信じている。
安房医師会の使命は、地域住民へ医療を安定して提供することである。非常時も同様だ。提供する医療機関の安全を確認し、安否確認を含めた情報共有と、災害非常時に必要な対応を随時提供し続けることである。
では、情報をどうやって共有するか?刻一刻と変化する災害時医療内容を把握するには。通信以外の方法は何があるのか?安房には安房のつながり方があるはずである。人とのつながりをもっと活かせないか?繋がりの確認、ルート確認は必須である。
災害時、細かく地域医療ニーズを拾うために、避難所を担当医制にして地区避難所へ出向くことも検討が必要と考える。今回、出向いた現場がたくさんのことを教えてくれた。医師一人で避難所の方々に何ができるわけではないが、少なくとも医療とつながっている安心感は提供できるはずである。地域と医療を繋げることも医師会の使命である。
次に来る災害までにやっておくことはたくさんある。歩みは止めている時間はない。
巻頭言 Vol.56 No.1 2020
安房医師会 新た年を迎えて
安房医師会 会長 原 徹
平成から令和の時代になり初めての新年を迎えました。
本年も皆様のご健勝・ご多幸を心から祈念しております。
振り返って昨年は安房地域にも大きな自然災害があり、将来に対する不安が一層増大してしまいました。このために以前から始まっていた地域での少子高齢化と人口減少がさらに加速しないことを願っています。ところで国から出された資料によると2018年の出生数は全国で92万1,000人、一方死亡者数は136万9,000人となり人口の自然減小数は44万8,000人となりました。この現実を踏まえ、社会の基盤としての医療提供制度の在り方も、変わらざるを得ないのが実情かと思います。
翻って安房医療圏(館山市 南房総市鴨川市 鋸南町)には16の病院 85の診療所があり128,000人にまで減少した圏内住民の健康を支えています。一方全国にある病院数は2018年末で8,412、診療所数は101,471との統計があります。この中から経営状態が厳しいとされた公立の病院424施設が昨年10月に公表されました。千葉県内でも10病院が挙げられ、その中には安房の2病院も含まれています。そして現実には厳しい運営状況に置かれた施設はこれらの施設の他にも多数あると考えられています。
皆さんは2008年春に行われた安房医師会病院の経営委譲を覚えておられますか? 現在も全国的に進められている“地域医療連携”の理想の形でもあった「医師会立」病院の運営が困難となり、社会福祉法人・太陽会にその経営を委譲し、現在の安房地域医療センターに生まれ変わった大きな変革でした。またこれに前後して県内では銚子市立病院、鋸南国保病院の運営問題も浮上、千葉県の医療提供制度の問題が大きく注目されました。当時からもうすぐ12年が経過しますが、問題の根本的な解決には至らず、地域医療機関の連携・統廃合・組織改革などを真摯に議論しなくてはならない状況が続いています。
ところで医療は会社などの営利目的の組織とは異なり「社会共通資本」(Social common capital)の一部ではないのでしょうか? この概念は宇沢弘文氏が提唱したもので1991年5月に当時のローマ法王ヨハネ・パウロ2世が出された回勅「新しいレールム・ノヴァルム – 社会主義の弊害と資本主義の幻想」:“社会主義と資本主義の2つの経済体制の枠組みを超えて、新しい世紀への展望を開こうとする回勅”がその基盤にあります。これを基に1.「ゆたかな経済生活を営み、優れた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような自然環境や社会的装置を造ること」そしてこの社会装置として医療機関や教育機関が位置づけられました。また2.「この装置は社会全体にとっての共通財産であり、それぞれの社会的共通資本に関わる職業的専門集団により、専門的知見と職業的倫理観に基づき管理運営されること」 3.「一人ひとりの人間的尊厳を守り、魂の自立を保ち、市民的自由を最大限に確保できる様な社会を目指す」ことが謳われています。
しかし現実にはヒポクラテスの誓いを守り医療を行うと医学的最適性と経済的最適性の両立は困難な問題です。この様に社会的共通資本として医療を考えると1.「各医療機関の意思が高い職業的能力と倫理観で、最善の診療行為をおこなっているか?」 2.「医療資源が効率的に配分されているか?」などの疑問が生じます。
現在、安房地域では学校組織の統廃合が進められていますが、公立学校の統廃合と私的な経営母体がその多くを占める医療機関とは全く異なる視点から議論を進めなければなりません。そして絶対的な人口減少から「独立した二次医療圏としての安房医療圏の在り方も再考しなければならない」と言う現実を踏まえ“公益法人としての安房医師会”は今年も歩んで行く覚悟です。
巻頭言 Vol.55 No.6 2019
巻 頭 言
安房医師会 理事 杉本雅樹
目下バタバタしています
台風15号の影響により、安房地域のみならず千葉県全体で多大なる被害を被りました。未だ復旧の目処の立たない地域があるかと思うと、心がいたたまれます。
台風直撃時の私は、仕事柄携帯の着信音とバイブレーションには敏感ですが、日頃の寝不足のためか全く気づくことがなく、目が覚めてはじめて事の重大さに気づきました。
我々のようなお産を扱う連中は、仕事と生活の境目が曖昧なため、家庭の心配よりも夜勤のスタッフ、入院の患者さん、これから産気づく妊婦さんのことで頭がいっぱいです。おまけに通信機器は使えず、周りの状況がわからないため、とにかく施設で待機し、来るべきお産に備えようということになりました。
半ばキャンプ生活を強いられている中、停電の間の3日間で2名の出産がありました。産ぶ声とともに、周りは歓喜の声で満たされて、大変思い出深いものとなりました。
みなさまも様々な体験とともに、今後の診療に大きな課題を残すことになったこと思います。安房医師会では、災害対策委員会を設置し、通信網の整備、ハザードマップの再確認、備蓄の準備...などなど、できるところから積極的に活動しています。そして、まだまだ続くであろう被災後の住民の健康被害に対し、真摯に対応していきます。
そして、我々が運営している産院群は、この体験を機に、より強固なネットワークを構築するために、あ~でもない、こうでもないとバタバタ試行錯誤しています。
巻頭言 Vol.55 No.5 2019
巻 頭 言
背水の陣
安房医師会 会長 原 徹
この5月には年号が平成から令和に代わり、G20・国際会議を経て7月の参議院選挙も無事終了。我が国だけでなく地球全体が安寧な状態を保ち、人々の暮らしが平穏である様にと祈る每日です。翻って自分自身に目を向けると年齢は着実に増し、それに反比例する様に体力・種々の能力は低下、さらに目を周囲に向けると地域社会も元気を無くし、将来への不安だけが着実に増大しています。そんな状況下で多くの開業会員が悩んでいる問題の一つが事業の相続・継承の問題であるかと思います。法人・個人の差、規模の大小に拘わらず事業の継承責任を問われ、その方策に頭を痛めておられる方も少なくないと思います。現実には事業継承に必要な財の維持に配慮した相続が必要となり、単なる「平等」では済まされない状況に陥ります。
ところで“馬鹿者”の事を「たわけ」と言うことがありますが、たわけ(=田分け)が語源とも考えられています。要は「相続する子供等の人数で田畑を分けると、孫・曾孫と代を受け継ぐ間に面積は減じ、結果として家は衰退してしまうこと」がその理由とされています。要は資産の分散は事業の継続を困難にしてしまうとの意味です。逆に「頼りになる」の「たより」の所以は「田寄り・田を寄せ合う」であるとも言われています。どうも自由や平等が尊重されると資産だけでなく責任も分散し、その結果、農業だけで無く様々な事業・産業も衰退してしまう危険を孕んでいるのでは?と危惧します。
話は変わりますが「漁夫の利」は、「肉を食べられまいとする蛤と、貝に嘴を挟まれたシギが争っているところを通りがかった漁師が両者を難なく生け捕りにした」との故事に由来しています。また同様に「犬兎の争い」も足の早い犬と兎が共に倒れ、通りがかった農夫が獲物を独り占めしたことが語源とされています。家庭内の相続問題と同様に、地域内でも我々住民が小競り合いをせず、大切なものを協力して維持継承すること。それには外部からの圧力・干渉に屈せず、且つ滅私奉公の精神を持ち努力を惜しまない事が必要であると考えます。「人間万事 塞翁が馬」、幸(福)と思えることが、後になって不幸(禍)となることも、またその逆もあります。
我々が住む安房地域は房総半島の南端部に位置し、地政学的にはまさに「背水の陣を敷かざるを得ない場所」に位置すると言えます。この地域から退けば海で溺れてしまう。そんな覚悟を持って将来を考え、地域が活性化することを期待しています。可能であれば「はやぶさ2」の様に大きな希望と計画を持ち、次の世代へ夢を語り継ぎたいものです。
巻頭言 Vol.55 No.4 2019
巻 頭 言
千夜一話
安房医師会 理事 野﨑益司
高コレステロール血症治療薬としてスタチンが上市されてからすでに30年以上の歳月が経過した。その間、各所で数々の大規模臨床試験が実施され、その結果およびメタ解析から導き出されたのが“the lower, the better”である。LDLコレステロール(以下LDL-C)を下げれば下げるだけ動脈硬化に起因する脳心血管イベントを低下させることができるというのは、どうやら現時点において真実だと考えていいようである。では実臨床において、一体どこまでLDL-C値を下げるべきかという疑問(clinical question)に対しては、これまでのエビデンスをもとに諸外国の学会等で目標値が設定されている。いわゆる “Treat to target”という方式であるが、敢えてこう表現しなくても我々にとっては馴染みのある概念である。我が国では日本動脈硬化学会がリスク区分別管理目標としてLDL-Cの絶対値を設定しており、我々は専らこのガイドラインに準じて日常診療を行っている。しかし改めて考えてみると、この“the lower, the better”と“Treat to target”は本当に整合しているのであろうか。2014年に発表されたIMPROVE-ITはあくまでも二次予防を対象とした試験であるが、すでにLDL-Cが正常域=targetに到達している患者に対し、スタチン+エゼチミブでさらにLDL-Cを平均53.2mg/dlまで低下させることにより、急性冠症候群の再発を有意に防止することができたことを示している。この結果を直ちに一次予防に当てはめるのは無理だとしても、管理目標値をリスク区分別に設定するという、言わば薬剤安全性と医療経済(費用/効果)を配慮した穏やかなやり方よりも、多少なりとも心血管リスクを有するグループに対しては、一律にLDL-Cの目標値を70mg/dl以下とするというアイデアも強ち無謀とは言えないのではないだろうか。
蛇足であるが、米国心臓協会/米国心臓病学会では二次予防における超高リスク患者を除き、他のカテゴリーにおいてはスタチン投与が前提となるものの、LDL-Cの管理目標値は敢えて設定しないという方針を取っている。この方式は“Fire and Forget(軍事用語!)”と称されており、勿論諸外国のみならず米国内においても批判的意見が多い。ましてや生真面目な(?)日本人にとって、この考え方を到底容認することはできないだろうが、“どこまで”下げるかよりも“どれだけ”下げるかを重視したこのスタンスは、むしろこれまでのエビデンスを正確に反映させたものかもしれない。ちなみにこれまでの日常診療においてはすでに何の違和感もなくこれを実践しているのであって、ワーファリンからDOACに変更(fire)した途端、我々はモニタリングを完全にforgottenしているのである。
EBMを唱えられてから久しいが、clinical medicineという領域においては純粋科学以外に医療経済学という側面も考慮しなければならない。我々保険医にとって診療枠という“足かせ”が存在する以上、各種ガイドラインに則った診療が求められることは確かであるが、それらを十分認識した上で患者個人に即したいわゆるテーラメイド医療もこれからの時代に求められる姿であろう。そしてさらには、これらの情報をRWD(Real World Data)として蓄積していくことにより、より一層科学的根拠に基づいた医療サービスの提供ができるようになるのではないだろうか。